雪歩は椅子に座って、水筒に入れてきたお茶を飲んでいた。
いつも、どんなときも、体と心を温めてくれるとっておきの玉露。
なのに今日は、何杯飲んでも全然効果がない。

『うぅ……』

緊張もしているし、不安でもある。
が、何より、びりびりと肌を刺激する、周りの敵意に耐えられなかった。
周りのみんなが雪歩を見てバカにしている気がする。

『このお茶が美味しくないなんて……』

哀しくて涙が出そうになった。

それでも、お茶を飲む以外に、することもなかった。
小さい体を一層小さくして、音も立てずにお茶をすする。

このお茶でもう五杯目だ。
水筒のお茶も、もう残り少なくなってきている。

無くなったらどうしよう、と思い始めた頃に、ドアが開いた音がした。
顔を上げると、入り口のところにさっきの受付の女の人がいた。

「みなさん、こんにちは!
 765プロ新人発掘オーディションへようこそ!」

その場にいる全員に緊張が走る。
雪歩も慌てて椅子から立ち上がろうとしたが、完全に体が縮こまっていて、立つことができなかった。
「あ、そのままでいいですよー。リラックスしていてください。
 私たちは皆さんの笑顔を見せてもらいたいですからねー。皆さんのファンも同じですよー?」
軽い笑いが起き、少しだけ場の緊張が緩んだ気がする。
だが、雪歩の緊張はまったく緩まなかった。
いつもなら微笑むくらいのことはできるだろうに、顔がこわばって口角を上げることすらできない。

「それでは準備ができ次第、みなさんの番号をお呼びしますので、呼ばれた方は速やかに隣室に行ってください。
 では、がんばってくださいね!」
そういって女の人は出て行った。

雪歩はうつむいた。
ここにいるのは間違っているという思いが、雪歩を捕らえて離さなかった。

こんな居心地の悪い場所、早く出て行ってしまいたい。

オーディションはつぎつぎと進んでいる、ようだ。
呼ばれて出て行った娘は、そのまま帰ってしまった娘もいれば、戻ってきた娘もいた。
淡々と進んでいるのだろう、定期的にあの女の人が呼びに来た。

雪歩はすでに、お茶は飲み干してしまった。
冷たくなった水筒のコップを持って、底にわずかに残ったお茶が乾いていくのをじっと見ていた。

「ねえ」
「え?」
突然話しかけられ、驚いて顔を上げた。
いつの間にか目の前に、くせ毛の長髪を金に染めあげた女の子が立っていた。

「そんなにうつむいてちゃ、ダメだと思うな、ミキは」
「え、あの……?」
「どーしてそんなにクラくなってるの? さっきこけたから?」
その言葉に反応して、さっきの鞄の娘が怖い顔をしてこっちを見た。
「え、ち、ちがう! ちがいますっ」
「じゃあ、どうしてうつむいてたの?」
「あ、あの……ちょっと考え事を……」
「ふーん」
それだけいうと、その娘は雪歩の隣の椅子にどすんと座った。
そのまま、ぼーっと前を見ている。

『なんなんだろ、この娘……』

雪歩は、ちらちらとその娘を盗み見る。
顔つきからすると年下に見えるが、それにしてはやたらとスタイルがいい。
『すごい……』
一目でボディラインがわかるような服を着ているわけでもなかったが、それでも目が釘付けになるくらい胸がある。
当然『ひんそー』な自分とは比べるべくもない。

「あふぅ……」
その娘は突然大きなあくびをしたかと思うと、こっちを向いた。
雪歩は慌てて、視線を床に落とす。
「ね、名前、なんて言うの?」
「あ!? あ、は、萩原、雪歩、です」
「ふーん、いい名前なの! ミキは星井美希って言うんだよ。よろしくね!」
そういって、その娘は手を差し出した。
雪歩も、おずおずとその手を握り返すと、美希はぎゅっと握り返してにこっと笑った。
妙に人好きのする娘だ。およそ邪気というものがない。

「雪歩は、アイドルになりたいの? だよね。ここに来てるんだし」
「え……そう、かな……たぶん……」
自分でももう、よくわからない。
「ミキはねー、ちょっと違うかも。
 こないだ渋谷歩いてたら、変なおじさんに捕まって」
「えぇ!?」
「エンコーオヤジかと思ったから蹴り上げてやろうとしたら、なんか名刺渡してきたの。
 そしたら、ここのシャチョーだって。そんで、オーディション受けてくれって頼まれたの」
雪歩はぽかんと口を開けた。
『それって、もしかして、すごいんじゃ……?』
あまりにこともなげに言うので、そういうのが普通なのかとも思った。

が、周りの女の子達も、明らかに顔色が変わっている。
「フカシよ、フカシ」という聞こえよがしな声も聞こえてきた。

雪歩は居心地が悪くて身をすくませるが、美希はまったく気にしてる様子がない。

「ミキ、めんどーなのキライだから、やだって言ったんだけど……。
 でもこの事務所、如月千早さんがいるって聞いて!」

突然、美希の口調と表情が変わった。瞳と声に熱っぽさが混じっている。
「あんな風になれるなら、ちょっとくらいは考えてもいいかなーって思って。
 ミキ、Harmoniaの大ファンなの! 路上ゲリラライブ、かっこよかったんだよ!
 突然109の前にトレーラーが止まってねー! すごかったなー……」
美希は、そのキラキラした目のまま、雪歩に向き直った。
「で、雪歩はどうしてアイドルになりたいの?」
「え……どう、して?」

――そういえば、私は、どうしてアイドルになりたかったんだろう?

この部屋に来てから、それを忘れていた。
雪歩はポケットに入っているものの重みを思い出す。
『ひろちゃん……』
上着のポケットをそっと押さえる。

「雪歩?」
「あ、ご、ごめんなさい」
「どしたの? なんか、聞かれたくないことだった?」
「ち、違うの。そうじゃなくて……私……」

言葉を探していると、雪歩の番号が呼ばれた。
「26番の方ー」
「あ、は、はいっ!」
慌てて立ち上がり、荷物を持って小走りにドアに向かう。
ドアから出る直前、雪歩は座ってた場所を振り返った。
美希は、笑顔でひらひらと手を振っている。
「いってらっしゃーい」

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