少女は空を見上げて、嬉しそうにぱっちりとした垂れ目がちな目を細めた。
肩口までそろえた髪が、さらりと耳をくすぐる。

「いいお天気……」

初冬の空はすっきりと晴れ渡り、風も凪いでいた。
まろやかな光が目に優しく、何気なく手をかざすと、手のひらにはお日さまの恵みが十分に感じられた。

その少女、萩原雪歩は、こういう日が大好きだった。

学校に行く道も、日の当たっている道を選んで歩くだけでとても楽しい。暖かい日の光が気持ちをも暖めてくれる。

思えば今朝は、目覚めたときからわけもなく心が浮き立つ日だった。
そのせいか、朝食のお茶は美味しく淹れることができたし、茶柱もおまけについてきた。

しかし。
『……これであと、あの道さえ通らなくてもいいなら、さいこーなのにな……』
 学校が近づくにつれ、幸せな気分が少しずつしぼみはじめた。

気持ちに呼応するように歩みも次第に遅くなりはじめる。ついに、ある曲がり角で雪歩の足が止まった。
『うぅ……』
目を閉じて、ぎゅっと鞄を抱きしめる。


できることならこんな道は通らずに済ませたい。
しかし、学校の門はすぐそこにある。この道を通らないことには学校に着かないのだ。

問題は、「犬」だった。

学校のはす向かいに、雪歩にだけいつも吠えかかってくる犬がいるのだ。
友人曰く、「雪歩の犬嫌いオーラが伝わってるんじゃないの?」と言うことだが、そんなこと言われたってどうしようもない。
好きで嫌いなわけじゃないし、あまつさえその犬は、雪歩にとってありえないくらい巨大な犬だった。
そのうえ、いつも雪歩がその道に入ったとたん激しく吠えかかってくる。
匂いでもするのだろうか、と思い、朝、シャワーをしっかりと浴びて、できるだけ匂いを消したこともある。
もちろん、まったく効果はなかったが。

あと三年、この道を通り続けねばならないと思うと、それだけでも気持ちが沈んでくる。
とはいえ、家に引き返すわけにも行かない。

雪歩は覚悟を決め、ふぅ、と気合いを入れてカバンを抱きなおした。
「われはトラ、いかになくとも犬はいぬ、獅子の歯噛みをおそれざらめや……」
祖母直伝の犬よけのおまじないを口先で唱え、目を閉じてダッシュした。

歯を食いしばって、よたよたと走る。
しかし、今日は道に入っても吠えかかってこなかった。
『でも、どうせ門の前を通れば……』
変わらず、突然吠えかかられたときの覚悟を決めて走る。

たぶん、今、門の前くらいだ。

そろそろだ。





そろそろだ。







もうくるか?









あと5歩以内!












「……あれ?」

一向に、吠えかかってくる様子がない。
雪歩はゆっくりとダッシュをやめて、こわごわと目を開いてみた。

「あ……!」

ちょうど、あの呪わしい門の前だった。
犬の姿はない。いつもは今にも壊さんばかりに門にもたれかかり、雪歩をぎゅっとにらみつけて口角に泡をためながら吠えかかってくるとあの犬がいない。

こんなこと、高校入学以来はじめてだった。思わず、笑みがこぼれた。空を見上げて、お日様に感謝をする。

『今日はほんとに、いい日……かも』

と、突然。

後ろから何かにタックルされてつんのめった。
「ひぅっ!?」
まさに、青天の霹靂。このタックルは、まさか……あの犬!? やり過ごした、と思ったのは幻想だった!?

『あの鋭い牙のついた大きな口でかじられたら、私のひんそーなぼでーなんてあっという間に……
あ、あれ、でも、ひんそーだけど食べるところなんてあるのかな……
や、その前に、食べられたら死んじゃうーっ!!』

この間。わずか、コンマ1ミリ秒の思考だったという。

雪歩の普段の行動からは、とても考えられない素早さでしゃがみ込み、カバンを頭にかぶせて叫んだ。
「いやぁぁぁあ、やめてー!
 私なんてひんそーだし、ガリガリだし、食べてもぜんっぜん! おいしくなんかないですぅーっ!」
「ゆきほぉー!」
「ひぇゃぁあああ! 犬が私の名前を……って、え……?」

そんなわけは、ない。
おそるおそるカバンをどけて振り向くと、見知った顔と目があった。

「ひ、ひろちゃん……?」
「雪歩、受かった!」

ひろちゃんはへたり込んでいる雪歩の正面に座って肩をつかみ、雪歩の頭がヘッドバンキングするほど激しく揺すった。

「え、な、なに……?」
「だからっ、通ったんだってば!」

世界がぐりんぐりんと回る。雪歩はだんだん目が回ってきた。

「え、あの、ちょっと……それより気分が……ひろちゃん、とめてぇ……っ」
「あ、ご、ごめん!」

ひろちゃんは慌ててぱっと手を離した。
雪歩は揺すられた勢いが止まらず、まだ頭がぐらぐらと揺れていた。ついでに、回った目も止まらない。

「雪歩、だいじょうぶ? ごめん、興奮しちゃって」
「ううん、だいじょうぶ……で、なにが、どうしたの……?」
「あ、そうっ! それ!
 雪歩、あんたアイドルになれるんだよ!」
「え、あいどる……? それは、おめでとうございます……」
「あ、正確にはなれるかも、だけど。
 でも、雪歩ならきっとだいじょうぶ! 二次も受かるに決まってるし!」
「え……。だれが?」
「だから、あんたが」
「あんたさん? って、誰だっけ?」
「だから、雪歩! あんた!」
ひろちゃんが、雪歩の鼻先に指先を突きつけた。
「え……わたし!?」
「そうっ! しかも、あの、765プロだよ!?」
「え、あの、アイドルって、わたしが、アイドル……工エエェェエエ工!!??」

≪続く≫

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