Archive for the ‘IDOLM@STER’ Category

「えーと、あと十人くらいか……」
夏樹はエントリーシートを投げ出して、伸びをする。
やっと終わりがみえてきた。

「で、夏樹君、どうかね」
「どうかねも何も……。これ、誰が書類選考したんですか」
思わずため息を吐く。今までの所、ほとんどが話にならない。
ほとんどの受験者は「アイドル」というところに目を奪われて、「歌手」というところには目が行かなかったらしい。のうのうと「女優志望です」とのたまった娘すらいた。

そんなの、なんで書類審査でなんで落とせなかったんだ、と思う。

765プロはあくまで「アイドル歌手」の事務所だ。
グラビア撮影やドラマ出演などがないわけではないが、あくまで歌手プロデュースの一環であって、他の活動の比重はかなり軽い。
女優志望なら、別のプロダクションに行くべきだろう。

「アイドル〝歌手〟のオーディションって、ちゃんと募集要項に書いたんですか?」
「いや、まあ、そのアレだ……うん。書いたはずだと思うよ?」
「もう……」
夏樹は机に突っ伏した。
連日の激務が響いている上に、これはキツい。
『やっぱり、なんとしても断るべきだった……』
しかし……断ったら、アルバム制作の予算が……。
なんとか、萎えそうな気力を奮い立たせて起き上がる。
これも、あずさ、千早、真のためだ。

「うーむ……では、今のところ、有望な娘はいないと?」
社長はパラパラと書類を眺めている。
「うーん……まあ……」
夏樹は面接済みの娘のエントリーシートを手に取って、付箋の貼ってあるものを取り出した。
「これまででいうなら、この星井美希って娘はいいと思いますよ」
ルックスも抜群だし、ちょっと甘えるような感じの声質もいい。
面接でどうどうとあくびをやってのける度胸も、ある意味すごい。
個性と将来性ではずば抜けているといえる。
「そ、そうかね? いや、照れるじゃないか、夏樹君」
社長は嬉しそうに頭をかいた。
「はぁ……? なんで社長が照れるんですか」
「あ、いや。実は、彼女は私がスカウトしてきたんだよ」
「へー。社長、いい目してますね。その目があれば大丈夫ですよ。じゃ、わたしはこれで……」
「いやいや。さ、次の娘を呼ぼう!」
「……もう、私いなくてもいいじゃないですか……。
 もう午後に食い込んでるんですよ。予定が……」
「いやいや。君の代役はきちんと手配しただろう?
 逸材はこの後に隠れてるんだよ、夏樹君!」
「もー……」
こんなときは手回しがいいんだから、と言う言葉を飲み込んで、もう一度伸びをした。

次の娘のエントリーシートを取り出して、机の上に置く。
『はぎわら……ゆきほ、か……』

雪歩は椅子に座って、水筒に入れてきたお茶を飲んでいた。
いつも、どんなときも、体と心を温めてくれるとっておきの玉露。
なのに今日は、何杯飲んでも全然効果がない。

『うぅ……』

緊張もしているし、不安でもある。
が、何より、びりびりと肌を刺激する、周りの敵意に耐えられなかった。
周りのみんなが雪歩を見てバカにしている気がする。

『このお茶が美味しくないなんて……』

哀しくて涙が出そうになった。

それでも、お茶を飲む以外に、することもなかった。
小さい体を一層小さくして、音も立てずにお茶をすする。

このお茶でもう五杯目だ。
水筒のお茶も、もう残り少なくなってきている。

無くなったらどうしよう、と思い始めた頃に、ドアが開いた音がした。
顔を上げると、入り口のところにさっきの受付の女の人がいた。

「みなさん、こんにちは!
 765プロ新人発掘オーディションへようこそ!」

その場にいる全員に緊張が走る。
雪歩も慌てて椅子から立ち上がろうとしたが、完全に体が縮こまっていて、立つことができなかった。
「あ、そのままでいいですよー。リラックスしていてください。
 私たちは皆さんの笑顔を見せてもらいたいですからねー。皆さんのファンも同じですよー?」
軽い笑いが起き、少しだけ場の緊張が緩んだ気がする。
だが、雪歩の緊張はまったく緩まなかった。
いつもなら微笑むくらいのことはできるだろうに、顔がこわばって口角を上げることすらできない。

「それでは準備ができ次第、みなさんの番号をお呼びしますので、呼ばれた方は速やかに隣室に行ってください。
 では、がんばってくださいね!」
そういって女の人は出て行った。

雪歩はうつむいた。
ここにいるのは間違っているという思いが、雪歩を捕らえて離さなかった。

こんな居心地の悪い場所、早く出て行ってしまいたい。

オーディションはつぎつぎと進んでいる、ようだ。
呼ばれて出て行った娘は、そのまま帰ってしまった娘もいれば、戻ってきた娘もいた。
淡々と進んでいるのだろう、定期的にあの女の人が呼びに来た。

雪歩はすでに、お茶は飲み干してしまった。
冷たくなった水筒のコップを持って、底にわずかに残ったお茶が乾いていくのをじっと見ていた。

「ねえ」
「え?」
突然話しかけられ、驚いて顔を上げた。
いつの間にか目の前に、くせ毛の長髪を金に染めあげた女の子が立っていた。

「そんなにうつむいてちゃ、ダメだと思うな、ミキは」
「え、あの……?」
「どーしてそんなにクラくなってるの? さっきこけたから?」
その言葉に反応して、さっきの鞄の娘が怖い顔をしてこっちを見た。
「え、ち、ちがう! ちがいますっ」
「じゃあ、どうしてうつむいてたの?」
「あ、あの……ちょっと考え事を……」
「ふーん」
それだけいうと、その娘は雪歩の隣の椅子にどすんと座った。
そのまま、ぼーっと前を見ている。

『なんなんだろ、この娘……』

雪歩は、ちらちらとその娘を盗み見る。
顔つきからすると年下に見えるが、それにしてはやたらとスタイルがいい。
『すごい……』
一目でボディラインがわかるような服を着ているわけでもなかったが、それでも目が釘付けになるくらい胸がある。
当然『ひんそー』な自分とは比べるべくもない。

「あふぅ……」
その娘は突然大きなあくびをしたかと思うと、こっちを向いた。
雪歩は慌てて、視線を床に落とす。
「ね、名前、なんて言うの?」
「あ!? あ、は、萩原、雪歩、です」
「ふーん、いい名前なの! ミキは星井美希って言うんだよ。よろしくね!」
そういって、その娘は手を差し出した。
雪歩も、おずおずとその手を握り返すと、美希はぎゅっと握り返してにこっと笑った。
妙に人好きのする娘だ。およそ邪気というものがない。

「雪歩は、アイドルになりたいの? だよね。ここに来てるんだし」
「え……そう、かな……たぶん……」
自分でももう、よくわからない。
「ミキはねー、ちょっと違うかも。
 こないだ渋谷歩いてたら、変なおじさんに捕まって」
「えぇ!?」
「エンコーオヤジかと思ったから蹴り上げてやろうとしたら、なんか名刺渡してきたの。
 そしたら、ここのシャチョーだって。そんで、オーディション受けてくれって頼まれたの」
雪歩はぽかんと口を開けた。
『それって、もしかして、すごいんじゃ……?』
あまりにこともなげに言うので、そういうのが普通なのかとも思った。

が、周りの女の子達も、明らかに顔色が変わっている。
「フカシよ、フカシ」という聞こえよがしな声も聞こえてきた。

雪歩は居心地が悪くて身をすくませるが、美希はまったく気にしてる様子がない。

「ミキ、めんどーなのキライだから、やだって言ったんだけど……。
 でもこの事務所、如月千早さんがいるって聞いて!」

突然、美希の口調と表情が変わった。瞳と声に熱っぽさが混じっている。
「あんな風になれるなら、ちょっとくらいは考えてもいいかなーって思って。
 ミキ、Harmoniaの大ファンなの! 路上ゲリラライブ、かっこよかったんだよ!
 突然109の前にトレーラーが止まってねー! すごかったなー……」
美希は、そのキラキラした目のまま、雪歩に向き直った。
「で、雪歩はどうしてアイドルになりたいの?」
「え……どう、して?」

――そういえば、私は、どうしてアイドルになりたかったんだろう?

この部屋に来てから、それを忘れていた。
雪歩はポケットに入っているものの重みを思い出す。
『ひろちゃん……』
上着のポケットをそっと押さえる。

「雪歩?」
「あ、ご、ごめんなさい」
「どしたの? なんか、聞かれたくないことだった?」
「ち、違うの。そうじゃなくて……私……」

言葉を探していると、雪歩の番号が呼ばれた。
「26番の方ー」
「あ、は、はいっ!」
慌てて立ち上がり、荷物を持って小走りにドアに向かう。
ドアから出る直前、雪歩は座ってた場所を振り返った。
美希は、笑顔でひらひらと手を振っている。
「いってらっしゃーい」

「はぁー……」
雪歩は思わず、気の抜けたようなため息をついた。
はじめてみる芸能事務所は、意外と普通だった。むしろ、一見するとマンションのようにも見えなくはない。
煉瓦造りの三階建てほどの建物で、入り口の門の脇に『(株)765プロダクション』という看板が掛かっている。

「ここであってる……んだよね」

雪歩はひろちゃんに渡された資料を鞄から取り出した。
資料の入ったA4の封筒には、看板と同じロゴがある。雪歩は小さく頷いた。

もう一度建物をみると、足がかたかたと小刻みに震えはじめた。
震えを抑えるかのように、ぐっと書類を握りしめる。

――やっぱり、怖い。

雪歩は、まだ迷いが抜けきってないことを自覚する。
犬に吠えられた勢いでやるといったものの、今日まで何度も決意がぐらついた。

本当にやっていけるのか。そもそもアイドルってどういう仕事をするのか。
犬よりマシとはいえ、男性が苦手な自分でも、やっていけるようなものなのか。

『――はっ! だめだめっ』

ネガティブな気分が充満しつつある。雪歩はぶんぶんと頭を振った。
ぐっと胸を張る。形だけでも飲んでかからないとっ。

「た、たのもーっ」

こないだテレビで見た、道場破りのマネをして門をくぐってみた。
うん、なんか、元気が出たかもしれない。

スモークグラスの自動ドアが開いたら、すぐ正面に簡素な受付ブースがあった。
ブースの中に、ライトグリーン基調の事務服をきた女性が座っている。
雪歩よりやや短いくらいの髪で、耳元にインカムが見えていた。

彼女は、雪歩をみてにっこりと笑った。
「こんにちは! オーディションを受けに来た方ですか?」
「あ……は、はいっ」
「エントリーシートを出してください」
「えんとりーしーと?」
「送付書類に入っていませんでしたか?」
「あ、はいっ」
慌てて封筒を探る。昨晩書いたアレだ。
封筒をごそごそと探ったが、なかなか出てこない。
「あ、あれ、おかしいな……」

受付の人は小首をかしげている。もしかしたら、疑われてるのかもしれない。
そう思うと、ますます焦ってしまう。ともかく書類を出そうと、封筒を逆さにした。
「あ!」
出てきた書類を取り損ねて、全部の書類が床に大きく散らばってしまった。
「あらあら」
「あああ、すみませ、すみませんっ」
しゃがみ込んで、慌てて集めてると、受付の人がブースから出てきて手伝ってくれた。

もう、恥ずかしくて、穴があったら入ってしまいたい。

急いで書類をかき集めていると、その中に、小さな名刺大のカードがあることに気が付いた
「……?」
拾い上げて裏を見ると、『がんばれ、雪歩!』という字が目に飛び込んできた。
ひろちゃんの字だ。
「あ……」
「はい、これ」
受付の人が書類を渡してくれた。「お友達?」と言って、にこりと笑う。
嬉しくて、胸がいっぱいになった。
「……はい。応募してくれた、友達なんです」
「そっかー。じゃあ、お友達のためにも、がんばらないと!」
「はいっ!」
「じゃあ、エントリーシートを」
エントリーシートを取り出し、受付の人に渡すと、12と番号の書かれた小さな紙を渡してくれた。
「これがあなたの呼び出し番号です。
 こちらのエレベーターから、三階にあがって正面の部屋がオーディション参加者の待機場所です。
 がんばってね!」
「あ、ありがとうございますっ」
頭を下げて、エレベーターに乗った。

雪歩はエレベーターの中、左手でそっと胸を押さえる。
どきどきと高鳴っているのがはっきりわかった。不安もあるし、もちろん緊張もしている。

でも、今。右手にある友人のメッセージカードは、それを上回る力を雪歩に与えてくれていた。
『ひろちゃん……! わたし、がんばる……っ』
雪歩はそれを大切に、上着のポケットへしまい込んだ。




エレベーターを降りると正面に、『オーディション受験者控え室』という張り紙があった。
この部屋がさっきの事務の人が言っていた待機場所らしい。

そっとドアを開けると、すでに十四、五人の女の子がいた。
「あ、あの……こんにちは……」
一応、挨拶をしてみたが、誰も雪歩を見ようともしない。

いや、ちらりと視線を投げてきた娘はいたが、敵意のこもった目を一瞬みせ、すぐに視線を外した。

『え、どう……して? ……あっ』

そうか、と雪歩は思い当たった。
オーディションは単なる面接などではなく、この中で誰かがアイドル候補生として選ばれる、と言うことなのだ。
応募書類には、合格者の人数は「数名」とだけ書かれていた。
別の言い方をすれば、ここにいる人間はみなライバルで、蹴落とすべき敵なのだ。

気付いてみると、部屋は、ぴりぴりと音が聞こえそうなほどの緊張感で満たされていた。
みんなそれぞれ、なにかの紙を見ながらブツブツ言っていたり、部屋の壁面に張られた大きな姿見で身だしなみを整えたりしている。

当然可愛い娘ばかりで、明らかに自分は見劣りしている気がした。

『で、でも……私、がんばらないと……』

ともかく、落ち着こう。幸い、水筒にとっておきの玉露を淹れてきた。
部屋を見回してみると、隅の方にだれも座っていない椅子があった。
『あ、あそこで……』
と、足を出した瞬間、突然何かが引っかかった。
「あうーっ!!」
盛大にすっころんだ。部屋中に響くような音がした。
したたかに顔を打ち付けて、ひりひりしている鼻をこすりながら起き上がる。
足下を見ると、誰かの鞄のヒモに引っかかっていた。
「ちょっと、それ、あたしのカバン!」
駆け寄ってきたその女の子はその鞄を拾い上げ、雪歩をギッと睨んだ。
「ご、ごめんなさいぃ」
「気をつけてよね! もう!」
その娘はひったくるように鞄を取り上げた。

気が付くと、部屋中の注目を浴びていた。
周りからくすくす、という嘲笑が聞こえる。

『うぅ……やっぱり、私なんかが来ちゃダメだったのかも……』

765プロ社長・高木純一郎は、困り切った顔で指を組んだ。
社長のデスク前には、黒いスーツ姿でハーフフレームの眼鏡をかけた女性が、渋い顔で腕を組んで立っている。
「そういわずに頼むよ……夏樹くん」
夏樹と呼ばれたその女性は、「イヤですよ!」ときっぱり言い切った。
耳にかかった髪を、不愉快そうに後ろへと跳ね上げ、しっかりと腕を組みなおす。

「どうして私がアイドル候補生の面接を!?
 そんなの、契約にありませんし、第一私はいま、途方もなく忙しいんです!
 社長もご存じのはずでしょう!?」

実際、その女性――佐藤夏樹は忙しかった。
フリーのプロデューサーとして、過去に数々の名ユニットを育て上げた夏樹は、今は765プロに所属していた。
ユニット「Harmonia」のプロデューサーとして、である。

Harmoniaはついこないだまで、デビューも危ぶまれるほどのスキャンダルで潰れかけていた。
数々の根回しと一発逆転の秘策で、まとわりつく悪評を見事吹き飛ばし、やっと世間の注目度をあげることに成功したところだ。
逆にいえば、今が絶好の機会なのだ。今、アルバムを作らなければ、世間に忘れられてしまう。

もちろん、すでにアルバム制作の作成作業には入っている。今日も某スタジオで新曲のレコーディングをしていた。
その他、PVの制作や広告会社との折衝など、やらねばならないことは引きも切らない。

Harmoniaのメンバー、三浦あずさ・如月千早・菊地真の、三つの輝く才能を世に出すのが夏樹の契約であり、使命でもある。
今は、それ以外の全てが煩わしかった。

まして、新人アイドルの発掘などという、契約にもなければ関係もない仕事に関わる時間は一秒たりともない。


「しかしだね夏樹くん、わがプロダクションも目玉となるアイドルをもっと増やしていかなければ……」
「それはそうでしょうけれど」
夏樹は眼鏡をくっと押し上げて、眉根を寄せて、厳しい表情を作った。
ここは強硬に拒否しておかねば、押し切られてしまう。
とりつく島は、絶対に作ってはならない。

「私の契約は、765プロの代表となりうるアイドルを育てること、です。
 Harmoniaを育てている今、他の娘を見いだす理由はないし、その娘に関わる気もありません」
「いや、君に新しいアイドルをプロデュースしてくれ、というつもりはないのだよ。
 そうではなく、これまで多数、アイドルを育て上げてきた君の目からみて、有望な新人をだね……」
「だから、それは私の仕事じゃありません! 社長がおやりになればよろしいでしょう!」

社長と、目線をしっかりあわせて言い切った。


社長は頭をかいて、夏樹の視線を外し、くるりと椅子を回して背を向けた。
「こまったな……」
ふぅと息をついて、遠くを見ている。
「ああ、Harmoniaのアルバム発売も近いというのに、我が社には次のプランもない……。
 このままでは、Harmoniaのアルバム制作資金もままならないかもしれんな……」
「!」
夏樹は組んでいた腕を解き、慌てて社長のデスクに手をついた。
「ちょっと待ってください、社長! それはないですよ!」

夏樹はこれまでのプロデュース過程で、当初定められた資金をかなりオーバーしていた。
Harmonia以外でそんな失態を犯したことはないのだが、今回はスキャンダルの火消しや、強行したファースト・ライブなど、様々な面で予想外の出費が重なった。
デビュー前だったこともあって、そのときの資金が未だ回収できていない。
この間、渋る社長を説き伏せ、懇意の広告代理店などとも連携しつつ、やっとファーストアルバムの制作費を確保したところなのだ。
ここで予算をカットされては、Harmoniaのアイドル生命に関わる。

「おや、何か聞こえたかな? 私は独り言を言っただけだが……」
「~~~っ、この……」
勝負は決した。
不本意で、心外で、無念この上ないが、不承不承、引き受けざるを、得ない。
デスクに手を突いたまま、うつむいて小さな声を出した。
「……わかりました、やればいいんでしょう」
「おお、やってくれるか!」
「ただし!」
キッと顔を上げて、譲歩の限界を突きつけておく。
「午前中だけですよ! その日は午後から、大きな予定がありますから!」
「いや、よかった。ありがとう! 君の慧眼《けいがん》を期待しているよ!」
これ以上この場にいたら、何を押しつけられるか分からない。
踵を返してさっさと部屋を出た。


バタンと社長室のドアを後ろ手に閉じ、夏樹は深く息を吐いた。
「……クソタヌキっ!」
結局、押し切られてしまった悔しさを吐き捨てて、Harmoniaメンバーの待つスタジオへと向かった。

――こんなダメな自分に、そんな価値があるのか。
――でも、いくばくかの価値を認めてくれる人が、もし、いるとしたら……?
――けれど……アイドルという職業を、自分のものとして考えたことはこれまで一度もない。
――いや、だれでも……はじめはそうだと、思う。
――そんなことを言っても……だから自分ができるということには……。
――けど、今まで漠然としていた「変わりたい」が、具体的に実現できる……かも、しれないのに。

雪歩の中で相反する思いが激しくぶつかりあっていた
文字通り瞬間ごとで「やってみよう」と「やめよう」が入れ替わる。

「じゃね、雪歩、また明日ねー」
誰かに声をかけられて、ほおづえをついていた雪歩は顔を上げた。
「あ……」

ひろちゃんだ。
すでに、放課後になっていた。
クラスメイトは、三々五々散り始めている。

「?」
「う、ううん。なんでもない」
ひろちゃんはニコリと笑って小さく手を振り、教室から出て行った。



今日は一日、ひろちゃんの言葉を考えていた。
朝からこれまで何をしていたか、思い出しにくいほどだった。

ふぅ、と深いため息を吐いて、机の脇に下げている鞄を取り上げる。
机の中に入れてあった教科書やノートを鞄に入れた。
とんとんとまとめながら、今日の授業は、ほとんどノートも取っていないことを思い出した。

『ダメだな……ちゃんと、うちに帰ったら復習しなきゃ……』

放課後の教室で嬌声を上げるクラスメイトをあとにする。
ほとんど自動的に靴箱で靴を履き替え、校舎を出た。

雪歩の全身を重い塊が包み込んでいた。

ひろちゃんの申し出に返事をしなければ、いずれ二次オーディションの日は過ぎるだろう。
そうなったところで、それは結局、これまでの自分の日常を続けると言うことだ。

誰しも、そうやって日々を過ごしている。

なにも、咎められるようなことじゃない。

がっちゃーん!!

「ひぅ!」
突然、脇の民家の門が大きな音を立てて激しく揺れた。
ぺたんと座り込むと、大きな犬が自分に向かって吠えかかってきた。

「バウワウワン! ガウ! ワォン!」

いつの間にか、あの家の前まで来ていた。

突然吠えかかられたあまりの恐怖に、腕が小刻みに震えている。
すぐにでもこの場を逃げ出したい。だが、完全に腰が抜けて、立ち上がることができなかった。

「う、うぅ……。
 そんなに、そんなに吠えないでよ……私……ダメな子なの、わかってる……のに……
 ……それなのに……」

震える手でカバンを抱きしめると、涙がこぼれた。

そのとき、鞄がわずかに震えた気がした。
腕が震えているから、そのせいか、と思ったけれど、犬の吠える声に混じって、着信音が聞こえる気がする。
手は思い通りに動かないが、必死で鞄を開ける。果たして、確かに、ケータイは鳴っていた。

着信画面を見た。ひろちゃんだ。
両手でケータイを握りしめ、ボタンを握りしめた。
『もしもし、雪歩?」
「ひ、ひろちゃぁん……」
『あの、さ。雪歩、今日、元気なかったけど……』
「うう、ぐすっ、ぐすっ」
『え? もしもし、雪歩? どうしたの? 泣いてるの?』
「わた、わたし、やる」
『え?』
「私、変わりたい。ダメな子でいたくない」
『雪歩、だいじょうぶ? なにがあったの? いまどこ?』
「わたし……かわりたいの、ひろちゃぁん……」

雪歩は嗚咽《おえつ》が止まらなくなった。


犬は、ずっと吠え続けていた。

ありえない。まったくもって、ありえない。
これは「青天の霹靂」どころか、「赤道直下でオーロラ」くらいのありえなさだ。

雪歩は、さっき揺すられたときよりも激しい勢いで頭を振った。
「ムリムリムリ! ぜーったいムリ!」
「だって、一次審査通ってるんだよ? それって少なくとも書類ではいけてるってことじゃん!?」
「でもでも、アイドルってバーン! で、ボーン! な人じゃないと無理なんでしょ!?
 私、ちんちくりんでひんそーだし、ぜんぜんそんなんじゃないよーっ!」
「雪歩の場合、体よりもイメージの方がひんそーね……」
目を半分閉じて、呆れたように口を開けたひろちゃんは、すぐに表情を戻して肩をがしっと握ってきた。
「そんなことないってば! 雪歩十分カワイイし、私が保証するよ! きっと人気出るって!」
「で、でも、私、男の人って……」
「だからじゃん! いつも雪歩、変わりたいっていってるじゃん! これって、すっごいチャンスでしょ!?」
「う……」
「だーいじょうぶだって! イェス、ウィー、キャンだよ!」
「……でも……」
「雪歩ぉ~~」

 雪歩はうつむいて、考え込む。
『これは、本当にチャンスなのかも……でも……お父さんがなんていうか……』

――やれるものならやってみたい……気はする。
でも、本当に自分にできるのか。第一そんな夢物語が、自分に用意されてる、なんて。
でも――

でも、のリフレインが雪歩を覆う。
どう考えてもできるわけがない、という思いと、もしかしたら変わるためのチャンスかも知れない、という思いとが交錯し、思考の迷路にはまりこむ。

どのくらい固まっていたのだろう。
ひろちゃんのふぅ、というため息で現実に戻る。
「……そっかぁ……」
顔を上げてひろちゃんを見ると、困ったような笑顔で雪歩を見ていた。
「ごめん、ちょっと興奮しすぎたかも。雪歩がやりたくないなら、しょーがないよね」
『え、ちがう』
雪歩はひろちゃんの顔をまっすぐ見た。
『やりたくなく、ない。
 せっかくのチャンスなのに。
 ひろちゃんが、私のために作ってくれたものなのに。
 私は、それを本当に捨ててしまっていいの……?』

衝動が激しく雪歩の喉を突き上げていた。
しかし喉の蓋は厚く重く、言葉はそれを突き破れなかった。

もどかしくて奥歯をかみしめると、ひろちゃんがにっこりと笑った。
「ガッコ、いこ?」

その、ひろちゃんの笑顔が痛かった。

少女は空を見上げて、嬉しそうにぱっちりとした垂れ目がちな目を細めた。
肩口までそろえた髪が、さらりと耳をくすぐる。

「いいお天気……」

初冬の空はすっきりと晴れ渡り、風も凪いでいた。
まろやかな光が目に優しく、何気なく手をかざすと、手のひらにはお日さまの恵みが十分に感じられた。

その少女、萩原雪歩は、こういう日が大好きだった。

学校に行く道も、日の当たっている道を選んで歩くだけでとても楽しい。暖かい日の光が気持ちをも暖めてくれる。

思えば今朝は、目覚めたときからわけもなく心が浮き立つ日だった。
そのせいか、朝食のお茶は美味しく淹れることができたし、茶柱もおまけについてきた。

しかし。
『……これであと、あの道さえ通らなくてもいいなら、さいこーなのにな……』
 学校が近づくにつれ、幸せな気分が少しずつしぼみはじめた。

気持ちに呼応するように歩みも次第に遅くなりはじめる。ついに、ある曲がり角で雪歩の足が止まった。
『うぅ……』
目を閉じて、ぎゅっと鞄を抱きしめる。


できることならこんな道は通らずに済ませたい。
しかし、学校の門はすぐそこにある。この道を通らないことには学校に着かないのだ。

問題は、「犬」だった。

学校のはす向かいに、雪歩にだけいつも吠えかかってくる犬がいるのだ。
友人曰く、「雪歩の犬嫌いオーラが伝わってるんじゃないの?」と言うことだが、そんなこと言われたってどうしようもない。
好きで嫌いなわけじゃないし、あまつさえその犬は、雪歩にとってありえないくらい巨大な犬だった。
そのうえ、いつも雪歩がその道に入ったとたん激しく吠えかかってくる。
匂いでもするのだろうか、と思い、朝、シャワーをしっかりと浴びて、できるだけ匂いを消したこともある。
もちろん、まったく効果はなかったが。

あと三年、この道を通り続けねばならないと思うと、それだけでも気持ちが沈んでくる。
とはいえ、家に引き返すわけにも行かない。

雪歩は覚悟を決め、ふぅ、と気合いを入れてカバンを抱きなおした。
「われはトラ、いかになくとも犬はいぬ、獅子の歯噛みをおそれざらめや……」
祖母直伝の犬よけのおまじないを口先で唱え、目を閉じてダッシュした。

歯を食いしばって、よたよたと走る。
しかし、今日は道に入っても吠えかかってこなかった。
『でも、どうせ門の前を通れば……』
変わらず、突然吠えかかられたときの覚悟を決めて走る。

たぶん、今、門の前くらいだ。

そろそろだ。





そろそろだ。







もうくるか?









あと5歩以内!












「……あれ?」

一向に、吠えかかってくる様子がない。
雪歩はゆっくりとダッシュをやめて、こわごわと目を開いてみた。

「あ……!」

ちょうど、あの呪わしい門の前だった。
犬の姿はない。いつもは今にも壊さんばかりに門にもたれかかり、雪歩をぎゅっとにらみつけて口角に泡をためながら吠えかかってくるとあの犬がいない。

こんなこと、高校入学以来はじめてだった。思わず、笑みがこぼれた。空を見上げて、お日様に感謝をする。

『今日はほんとに、いい日……かも』

と、突然。

後ろから何かにタックルされてつんのめった。
「ひぅっ!?」
まさに、青天の霹靂。このタックルは、まさか……あの犬!? やり過ごした、と思ったのは幻想だった!?

『あの鋭い牙のついた大きな口でかじられたら、私のひんそーなぼでーなんてあっという間に……
あ、あれ、でも、ひんそーだけど食べるところなんてあるのかな……
や、その前に、食べられたら死んじゃうーっ!!』

この間。わずか、コンマ1ミリ秒の思考だったという。

雪歩の普段の行動からは、とても考えられない素早さでしゃがみ込み、カバンを頭にかぶせて叫んだ。
「いやぁぁぁあ、やめてー!
 私なんてひんそーだし、ガリガリだし、食べてもぜんっぜん! おいしくなんかないですぅーっ!」
「ゆきほぉー!」
「ひぇゃぁあああ! 犬が私の名前を……って、え……?」

そんなわけは、ない。
おそるおそるカバンをどけて振り向くと、見知った顔と目があった。

「ひ、ひろちゃん……?」
「雪歩、受かった!」

ひろちゃんはへたり込んでいる雪歩の正面に座って肩をつかみ、雪歩の頭がヘッドバンキングするほど激しく揺すった。

「え、な、なに……?」
「だからっ、通ったんだってば!」

世界がぐりんぐりんと回る。雪歩はだんだん目が回ってきた。

「え、あの、ちょっと……それより気分が……ひろちゃん、とめてぇ……っ」
「あ、ご、ごめん!」

ひろちゃんは慌ててぱっと手を離した。
雪歩は揺すられた勢いが止まらず、まだ頭がぐらぐらと揺れていた。ついでに、回った目も止まらない。

「雪歩、だいじょうぶ? ごめん、興奮しちゃって」
「ううん、だいじょうぶ……で、なにが、どうしたの……?」
「あ、そうっ! それ!
 雪歩、あんたアイドルになれるんだよ!」
「え、あいどる……? それは、おめでとうございます……」
「あ、正確にはなれるかも、だけど。
 でも、雪歩ならきっとだいじょうぶ! 二次も受かるに決まってるし!」
「え……。だれが?」
「だから、あんたが」
「あんたさん? って、誰だっけ?」
「だから、雪歩! あんた!」
ひろちゃんが、雪歩の鼻先に指先を突きつけた。
「え……わたし!?」
「そうっ! しかも、あの、765プロだよ!?」
「え、あの、アイドルって、わたしが、アイドル……工エエェェエエ工!!??」

≪続く≫

瀧です。

夏コミに向けて、新刊「キモチの行方」のプレストーリーとなるお話を、しばらく連載することにしました。
だいぶ前に配布した、「plologue of M@STERNOVEL 02」という話の焼き直しというか、ほとんどそのままです。
若干改変が入ってますが。

新刊はこの話の続き、ということなので、この連載、夏コミまでには終わります。
そして、新刊ではこの続きを配布する予定です。でも、大部になるので上下になるかも。

ともあれ、ぜひ、読んでくださいませ!

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